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2007年に始まる新たな自動車産業史と戦略を考察する(後編)
◆ダイムラークライスラー、サーベラスにクライスラー部門を売却。正式発表
<2007年05月14日号掲載記事>
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【前編の要旨】
ダイムラークライスラーの合併解消を機に、日本が関わった世界自動車産業史を振り返ると、日本的ものづくりの形成期(1936-1966)、日本的ものづくりと欧米型ものづくりの衝突期(1966-1988)、日本的ものづくりと欧米型ものづくりの協調期(1988-1997)、欧米型ものづくりの覇権競争期(1998-2007)の4 つの時代を経てきたことが分かる。
この 4 つの時代は、各々明治維新~日清日露戦争の時代、世界大戦の時代、サンフランシスコ平和条約の時代、冷戦の時代に対比できると思われる。
最初の 3 つの時代を経て、日本的ものづくりはグローバル化と為替切り上げを強要される形で輸出価格競争力の面では屈服させられたが、国際協調の枠組みの中で進化・刷新した統合性を武器に世界自動車産業の主要勢力として生き延びる。
それに続く冷戦時代は、現実世界ではイデオロギーの異なる二つの欧米勢力(米ソ)同士が、次世代戦争を有利に戦うための勢力圏拡大を目指して、核兵器という飛び道具を用いて政治外交力を競い合った時代である。
世界自動車産業史でも同様に次世代戦争の構想を異にする二つの欧米型ものづくり同士が、次世代戦争を有利に導くための勢力圏拡大を目指して、M&A という飛び道具を用いてリーダーシップと財務力を競い合った覇権競争の時代であった。
この時期、日本的ものづくりは覇権競争の主役に回れる立場にはなく、スーパーパワーでなくとも存在感のあるリージョナル・プレーヤーとして勝ち残る道を選択し、統合的プロセスに磨きをかけることに専念してきた。
覇権競争の結末は、競争を維持するためのコスト負担に耐えられなくなって、両者ともに財務的に傷つき、リーダーを失って次世代戦争の前に戦場を去る結果となった。資源の蓄積に努め、それを統合性の強化に充ててきた日本的ものづくりが結果として世界唯一のスーパーパワーにのし上がる形で時代の終焉を迎えた。それが 2007年という時代の節目である。
【日本的ものづくりの再構築期~非対称戦の時代】
では、2007年に始まる新しい時代とはどのような時代なのだろうか。戦いの様式としては、「非対称戦(asymmetric war)の時代」であろうと考える。そして、世界自動車産業史的には「日本的ものづくりの再構築期」に入ったのだと考える。
「非対称戦」とは、質・量を異にする武力集団間(典型的には正規軍とテロ集団)で行なわれる戦闘のことを言う。従来の戦闘が、国家間で、同種の戦略目標を目指して、同種の装備・戦術を持つ正規軍同士で戦われる「対称戦」であったことと対照的である。非対称戦では攻撃の対象や勝敗の概念すらも対称戦とは異なることが多い。
言うまでもなく同時多発テロ(2001年 9月 11日)以降に急速に広まった概念である。この事件は、米国がソ連との冷戦に勝利し、唯一のスーパーパワーとなって、ユーゴスラビア紛争等を通じてその能力を世界に見せ付けた直後に起きている。時代の変わり目から間を置かずに新たな戦いの時代が始まっているのである。
世界自動車産業史においても同様な定義が可能である。従来、世界自動車戦争は世界の主要自動車メーカー間で戦われてきた。そこには主要自動車メーカーごとに他社のお手本となるような得意分野の棲み分けがあり、他社はお手本に学びながら、自社の得意領域でそれをより巧妙なものづくりに転換するという戦略を取ることが可能で、その戦略に成功した自動車メーカーに経済的繁栄がもたらされるというゲームのルールが存在した。
例えば、伝統的に北米企業は商品企画と市場導入が得意で、実際にミニバン、SUV、フルサイズピックアップなど多くの市場セグメントを開発してきた。欧州メーカーは要素技術の開発と規格化に長けており、DOHC、可変バルブ機構、コモンレール、ESC など多くの技術がそこで開発され、CAN、NCAP、DIN などの規格化にも成功している。日本車は統合的なプロセスの設計と運用が得意領域であり、欧州で開発された技術・規格を、日本の統合的なプロセスを用いて世界最高の生産性と品質に作り込んだうえで、北米メーカーが創出した市場セグメントに対して米国流のマーケティング手法を用いて投入して、成功してきたと言える。
米欧間の覇権争いの結果、両者ともに疲弊してしまい、図らずも世界唯一のスーパーパワーとなった日本的ものづくりも、冷戦後の米国同様に外からも中からも新たな挑戦を受け始めている。従来とは全く異なる敵からの全く異なる内容での挑戦であり、正に非対称戦である。
外からの挑戦者とは、自動車の統合性を積極的に評価しない勢力である。その勢力にも(不穏当な言葉遣いで申し訳ないが)左翼と右翼があると思う。
ここでいう左翼とは、クルマを必要悪もしくは不必要悪と捉える見方を指す。自動車がどれだけ統合性を高めたとしても、クルマが増えれば増えるほど環境汚染、天然資源の枯渇、地球温暖化など気象の激変が進み、交通渋滞や交通事故に起因する国民経済的・社会的損失が増大するというトレードオフの関係は本質的に避けられないという視点に重きを置き、国民経済・社会の自動車依存度を少しでも下げようとする運動のことである。理屈上は反論できないし、社会正義でもあるから強力である。
煙草、トランス脂肪酸、捕鯨に対する敵意がどれだけ凄まじいか、その結果、それらを取り扱う事業者がどのような境遇に置かれているかをイメージすればよい。
「クルマは本質的に違う、まだそこまでは来ていない」という反論があるかもしれないが、世界自動車戦争に敗北した米国が自動車の製造を放棄し、もはや国益とみなさなくなったらどうだろうか(実際にサーベラスはクライスラーが開発と販売に特化した企業になる可能性を示唆している)。
また、自転車や公共交通機関へのモーダルシフト、カーシェアリング、パークアンドライドを推進する動きにその予兆は感じられないだろうか。
一方、右翼はそのような自動車の社会や国民経済上の負の価値には関心がない。移動手段としての利便性や事業ドメインとしての収益性や成長性には従来以上に注目する一方、クルマが持つそれ以外の価値、特に資産性や自己表現手段としての記号的価値、居住空間や趣味の対象としての意味合いには従来ほどの意義を認めず、従って統合性のコストを払うことに消極的な勢力のことを言う。日本国内では携帯の方がより重要であってクルマは下駄代わりで十分とする若年層、海外では 100 万円以下の自動車を待望する顧客層にその広がりを見ることができる。また、そうした需要に中国やインドの新興自動車企業が応えようとする動きがある。
左翼と右翼の動機やアプローチは 180度異なるものの、いずれも統合的な日本的ものづくりの否定に繋がりかねない動きであるという点で共通している。
一方、統合性に対する内からの挑戦者とは、それを内側で支えてきた人材の絶対的不足や希薄分散、ミスマッチの問題である。
人材の絶対数の不足は少子高齢化の国が抱える構造的問題だが、とりわけスーパーパワー化によって前線が世界規模に拡大したタイミングで、団塊の世代の退職期を迎えたことが事態をより深刻にしている。しかも、団塊の世代以降の技術者は、広く浅い統合的な知識経験よりも狭く深い完全性が求められる細分化された専門組織で知識経験を積むことが求められてきたため、グローバル化に伴う統合的な人材ニーズと必ずしも合致しない。
これら内外の変化は、統合的なプロセスに強みを持つ日本的ものづくりの従来の勝ちパターンに対する非対称型の新たな脅威と考えられる。唯一のスーパーパワーとなった日本的ものづくりが今後とも繁栄し続けようとするのであれば、伝統的な国家間の正規軍同士の戦いで勝ち残る能力だけでなく、非対称戦への対応能力も身に付けておく必要がある。「日本的ものづくりの再構築期」に突入したのである。
【日本的ものづくりの再構築期の戦略】
非対称戦には特効薬がない。その備えは米軍をもってしても十分ではなく、実際に世界中で苦戦を続けている。日本的ものづくりも同様の苦戦が予想されるが、米軍の成功・失敗体験からいくつかの方向性が示されていると考える。
まず、第一に、普遍的なビジョン・ミッションを構築し、誠実にその実現に努力する姿勢と、オープンに対話して協力者を募る活動が重要だと考える。
9 ・ 11 のあと、米国は自由・民主主義と生命・財産の安全の価値を再定義するとともに、その価値観の伝道者の役割を自らに課して、人の生命や財産を脅かすテロへの徹底抗戦を訴えて世界各国に賛同者を募った。
その成果はタリバン討伐戦への各国の協力と予想以上のスピードでの目標達成になって現れたが、パレスチナやバルカン半島政策ではダブルスタンダード、イラク戦争では国際協調のプロセスを経ない先制攻撃理論の独善性、一連の政策の背景に石油利権を巡る動機付けの不純性があった等の指摘を受けるに至ったことが失敗要因であると考えられる。
日本的ものづくりにおいては、安全・環境問題への対応でこの教訓を活かすべきである。従来、この分野は自動車メーカーにとって差別化・優位性確立の対象であり、外部に自社の戦略や技術情報が漏れることは競争上致命的だと捉えられてきたはずだが、非対称戦時代には逆にそのような囲い込みの姿勢こそが社会正義や一貫性を欠くものとして競争優位以前に自動車メーカーという業種の存続そのものを危うくしかねない。
社会は明らかに安全面ではゼロ・アクシデントを、環境面ではゼロ・エミッション、カーボン・ニュートラルを求めている。自動車産業はそうした社会と共生する意思と能力を、時間軸と方法論を含めて社会に提示し、一貫性をもって取り組んでいかなければ社会の共感は得られない。
また、実際にはおそらく自動車産業単独の取り組みでは社会との完全な共生は不可能であろうから、自らには何がいつどこまでできて、外部にはいつ何をどこまで求めようとするのかもオープンにして、誠実に社会や異業種と対話していく姿勢への転換が求められるだろう。
こうした社会との共生のロードマップを明確にしていない企業もあるし、リコール問題、OBD (車載故障診断装置)情報の開示、ドライブレコーダの搭載義務付けといった問題に対しては不誠実さや消極的な姿勢が一部見られる。非対称戦時代にはこうした姿勢が自動車産業の存続を危機に陥れかねないリスクを有していることを認識しておくべきであろう。
第二に、統合コストの引き下げがもっと議論されるべきである。
低価格車に対するニーズが高まっているからと言って、前述のような安全・環境に関する分野で統合性を犠牲にして低コスト化を実現するような安易な妥協は許されない。日本車は売れるものなら何でも作る・売るかのような格好となり、一貫性を欠くことになるからである。
だが、それ以外の領域では統合コスト引き下げの余地はもっとあるように思う。例えば筆者が乗っているある欧州車は前後のドアのウェザーストリップの高さが揃っていない。日本車の美的感覚や同じ価格帯の乗用車の設計・組付標準からいえばありえないことではないかと思う。だが、それによって興冷めになるほど重要な問題かといえばそんなことはない。統合性にも軽重や優先順位があってよいと思う。
また、統合性が求められる領域であっても表が統合的であれば裏が非統合的であってもよいもの、インターフェースが統合的であれば単体は非統合的であってもよいもの、機能的に統合的であれば構造的に非統合的であってもよいものなど、統合性の程度や範囲ももっと柔軟であってよいとも思う。
(ここで「統合的」とは個別専用設計で摺り合わせ型のプロセスで作り出す製品、「非統合的」とは汎用標準設計で組み合わせ型のプロセスで作り出す製品のことを指す。)
何にでも高い次元の統合性を求めれば、自動車メーカーの負荷は下がらないし、サプライヤ側でも規模の経済性が働かないからコストも下がっていかない。非対称戦の時代には統合性のフレームワークを再定義することが必要であり、それに伴って関係者間で業務スコープや責任の焦点・範囲・基準を再度見直し、権限委譲を一層推し進めることで、統合コストの引き下げを検討していく必要があるだろう。
第三に、人的生産性の飛躍的向上のための取り組みが求められる。
従来、標準化や共通化はコスト削減の観点から論じられることが多かったと思う。上記の統合コスト削減にもその視点が多分に入っている。だが、限られた人的資源を有効活用するという観点でも標準化や共通化がもっと注目されてもよい。
標準化とは、平均的な教育を受けて平均的な熟練度を持つ日本人でなくても同じ内容・同じ水準の仕事がこなせるようにするツールであり、共通化とはたった一人で何人分もの仕事をこなしたのと同じ成果が導けるようにするツールと考えることが出来る。
人的資源の節約や有効活用が求められる非対称戦の時代にはそういう意味での標準化・共通化の効用がもっと脚光を浴び、もっと活用されてよいはずである。
同時に意識的に技術者の統合性を育成するような組織的・人事的な取り組みも必要になってくるだろう。高度な専門性が求められることから細分化してきた縦型の組織や人材には統合性の面での制約が生まれやすい。だからこそ、日本的ものづくりでは主査制を設けて意識的に横軸を通したり、計画的な人事ローテーションを行なったりして、専門分野以外の知見に接する機会を設けようと努めてきた。
だが、クルマの概念を根底から変えたプリウスが当初計画から 2年も早く市場投入できたのはなぜなのかを、次の 3 点を踏まえて組織・人事面からもう一度評価してみる価値があると思われる。
第一に、この商品が機能別組織や製品別組織から生まれたのではなく、異例の課題別組織から生まれていること。
第二に、その開発を指揮したリーダー(主査)が、伝統的な車体設計からではなく、異例の実験畑からの起用であったこと。
第三に、当初は「 21 世紀のクルマのあり方を考える」ための技術的スタディに過ぎなかったプロジェクトを、企業戦略にまで高め、製品開発というアクション・プランに落とし込み、最終的に投入時期の前倒しを決定した経営トップが、理系(工学部)出身ではなく文系(商学部)出身だったこと。
これらの事実は、人的生産性の向上に組織・人事面で更なる意識改革の余地があることを示していると言えるのではないだろうか。
以上やや乱暴な展開もあったかもしれないが、非対称戦の時代も日本的ものづくりが勝ち残ることを強く願う立場からの献策としてご容赦いただきたい。
<加藤 真一>