2004 北京国際自動車会議を終えて

「2004 北京国際自動車会議」での講演を終えてきた。
「中国部品産業への新規参入」という講演の本題については、後日当社のHP(https://www.sc-abeam.com)にも掲載するのでそちらをご覧いただきたい。
(なお、日経オートモーティブテクノロジーさんにも詳しく取り上げていただいているが、一つだけ価格低下に関して講演では「30万元」とお話したのが、記事では「300万元」となってしまっている点はご注意ください。)

今回は、最新の中国自動車業界に関わる者として感じたところを述べることにしたい。
それは、中国という国家、それを運営する政府に対する感想で、ぜひこの国を「理念と秩序ある発展のモデル国家」にしてほしいということである。

「理念と秩序ある発展のモデル国家」とはどういうことかというと、他の先進国と同じようなGDPや国民所得などの経済的、財務的発展の獲得のみを目指すのではなく、中国独自の価値観や文化、歴史や体制の優位性を活かした独自のモデルを作り上げ、BRICsやその後を追う多くの途上国にベンチマークを提供して欲しいということである。

今回の国際会議の直前に中国政府(国家発展改革委員会)は、10年ぶりとなる新自動車産業政策を発表し、今回の会議でも同委員会産業発展研究所の胡副所長の講演に注目が集まった。私もぜひ聴講したかったのだが自分の講演枠と重なり叶わなかった(その割には私の講演枠にもほぼ同数のご参加をいただき大変恐縮している)ので、後でお話を伺った。

結論として新自動車産業政策に述べられていることは、日産自動車の志賀常務が今回の講演でも述べられていたとおり、特に目新しいことではなく、大筋では80年代後半以降言われていたことの再確認であったと言ってよい。

即ち、自動車産業を基幹産業として位置づけ、そこからカスケードダウンされていく技術革新や資本集積を産業全体、経済全般に効率的に活用していくという意思と、そのために重複投資を避け、外資の技術や資本を活用するというプロセス、がエンドースされたもので、一貫性、整合性のある政策である。新しい政策ではそれに消費者の権利や環境、安全に責任を持つ体制の構築の指針が示された。

しかし、失礼ながらこれだけでは「理念と秩序ある発展のモデル国家」としては不十分ではないかと私は思う。これだけでは普通の国の普通の産業政策に過ぎない。

中国各地を旅してよく出くわすのは、「正直者が馬鹿を見る」光景である。空港でも観光地の切符売り場でもレストランでも今回のモーターショーでも行列などお構いなしに次々に先頭に割り込んでくる連中が真っ先に切符を手にしていく。

また、中国の各都市を自動車で走ったときに全員が最初に気付かされることは、この国では「自動車が歩行者よりも遥かにえらい」という現実である。歩行者や自転車は青信号でもゆっくり横断しているわけにはいかない。自動車が来たら道を譲らない限り撥ねられてしまう。
交通公安(警察官)が側にいるが何のお咎めもない。
実際、乗用車保有台数で日本の6分の1に過ぎない国で、年間の交通事故死者数は日本の10倍に達する。

これらを「途上国にありがちなマナーの悪さ」だと片付けてしまうのは皮相的な見方だ。
中国で個人ユースで乗用車を保有しているのは総人口の0.5%程度。
都市でも年間可処分所得10万円強に過ぎないこの国で300万円以上はする乗用車を保有できる超上澄みの人たちである。

一方で上海や広州の駅に行ってみると、ホームレスと同じ風情の無数の農民出稼ぎ労働者に出会う。都市でも再開発のため住居を追われた市民が物乞いやいかがわしい商売に手を染めている。 そうした弱者に対して制度的救済は殆どないと言われるが、元を辿っていくとそもそも地方財政や官僚組織・人事にも関連がありそうだ。

地方政府のトップは、成果主義で評価され、数年おきに昇格昇進や配置転換を受ける。その際に「成果」とされるのは、地方行政のサービス品質に対する住民の満足度等ではもちろんない。
基本的には、在任期間中に担当地域のGDPや歳入をどれだけ増やしたか、他の地域と比較してどうだったか、という短期の、相対的な、経済的成果で判断されるという。

では、地方政府の歳入はどうなっているかというと、(1)個人および法人からの税収、(2)直営事業からの収益、(3)開発利益 の三部構成が基本である。日本のように中央からの地方交付金や補助金のような再分配の仕組みは殆どないそうだ。
税収は、日本以上に正確な所得の捕捉が難しいという問題がある上に、直轄事業も税収も急激に増やすことは難しい。

だからみんながそうだというわけではないが、短期で成果を上げようとしたら、農民の土地や貧民の住宅を安く買い上げて、工業団地やオフィスビル街に再生させる開発専門会社に転売することによる開発利益が最も手っ取り早いという考え方が出てきてもおかしくない。

ある地方がそういう考え方を取らずにいても周りの地方の多くがそういう考え方のもとに実際に経済的成果を上げていたらどうか。
それが長期的に地域社会や国家全体にとって、短期の経済効果以外も加味したうえで本当に全体最適を実現するプロジェクトなのかどうかは、反省が必要な場合もあるのではなかろうか。

地方政府も企業も国民もとにかく自らの短期的な経済発展、収益拡大オンリーで、それ以外の価値観や、それについてこられない国民が忘れさられつつあるように思われてならないのだ。 余計なお世話ではあるが、それでは持続的成長と国際的信頼を得ることは難しいだろうと思われる。

「正直者が馬鹿を見る」光景、「自動車が歩行者よりも遥かにえらい」という現実から考えさせられる社会構造は、実はそのように奥深いものなのである。

「理念と秩序ある発展のモデル国家」であってほしいと述べた。

もちろん、中国政府に理念がない等というつもりはない。
2002年末の共産党大会では2020年の中国を「小康社会」(いわば日本のような国民全てが中流階級の社会)にするというビジョンのもとに具体的な数値目標を提示している。ありたい国家像を全く提示していない日本に比べたら遥かに明確である。

また、秩序に関しては従来の国家統制、計画経済の非効率の反省に立つとともに、政治的な不満の解消やWTOなど国際社会の監視もあるから、意識的に市場原理や民間活力を活用する方向に振っているという面があるのは否めない。日本の10倍の人口と日本の26倍の国土を持つ国だから奥地まで秩序を浸透させようとしても困難だというのも分かる。

にもかかわらず中国には「理念と秩序ある発展のモデル国家」になってほしいと言っているのは、中国には独自の政治体制、創立以来の価値観や文化、歴史に支えられた、それだけの潜在力があると思うからである。

負の面が言われることの多い政治体制や統制力のプラス面を活かして、日本や他の先進国の物まねではなく、過去どの国でも実現できなかった独自のモデルを構築してこそ持続的成長と国際的信頼を獲得することができる。

さてここまでの話から何かお気付きではなかろうか。
そう、「中国」「政府」を「企業」「経営」に置き換えた場合に殆ど同じことが言えるということに。

<加藤 真一>