失敗体験に学ぶ

(厳しい月、厳しい質問)

<米 Automotive News 2005年 11月 7日号掲載記事>

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【10月の米自動車市場の異変】

2005年 10月の米自動車市場には次の 4 つの異変が起きた。

(1)全需(総市場)が 10月としては 92年以来最悪の 114 万台に陥った。
(2)ビッグ 3 のシェアが市場最低の 52.4 %に低下した。
(3)94年 8月以来初めて販売ベスト 10 から SUV が消えた。
(4)フルサイズ・ピックアップが前年比 32 %減の空前の減少を記録した。

これら 4 つの原因は同根とされる。SUV やフルサイズ・ピックアップなどの大型自動車はもともとビッグ 3 の牙城だが、ビッグ 3 が 7~ 9月に行なった「従業員向け割引価格適用キャンペーン」が秋口以降の需要を先食いした上に、昨今のガソリン価格の高騰の影響で大型車の需要が伸び悩み、その影響を最も受けたのが大型自動車への依存度が高いビッグ 3 だったというものである。

業界の関心は、これが一時的なものなのか、構造変化の兆候なのかの見極めにあり、多くのアナリストは一時的現象と見て中長期的には大型車需要や大型車に依存するビッグ 3 のシェアのリバウンドを予測している。

【構造的アプローチの重要性】

筆者も 10月の異変が一時的要因によってもたらされた部分が大きいことに異論はない。
昨今のガソリン価格高騰の一因にハリケーンの結果、米国の産油・製油機能が麻痺した影響が指摘され、今後も永遠に今のペースでガソリン価格が高騰していくとは考えにくいし、消費者にもいずれ高価なガソリン価格への慣れが生まれてくるであろう。

乗用者的な使い方の多い SUV は別にしても、半分は業務ユースであるフルサイズ・ピックアップの需要がこのまま壊滅することはないはずである。

また、大型車需要低迷の影響は必ずしもビッグ 3 だけに現われるわけではなく、事実 10月がそうだったように近年大型車市場への進出を進めている日本車メーカーにも打撃を与えるから、ビッグ 3 のマーケットシェアがこのまま一気に 50 %を大きく割り込むと見るのは早計であろう。

だが、失敗の原因を一時的要因のみに帰結することによって、より本質的な構造的課題が覆い隠され、その解決が先送りされるとしたら、その方がよほど深刻である。

実際のところ、ビッグ 3 や大型車の販売不振は今に始まったことではなく、既に夏前にはその兆候が顕著になっていたからこそビッグ 3 は需要の先食いも承知の上で夏場にあのような空前のキャンペーンに踏み切ったのである。

また、ガソリン価格に限らず、株式、不動産、外国為替等、自動車販売に影響を与える相場要因は多々あり、そのたびに一喜一憂しているようでは経営は成り立たないし、経営は不要ですらある。

やはりもともと潜在的に本質的、構造的な問題があり、それがある事態を引き金として一気に顕在化した結果が 10月の異変と考える方が自然だし、そういう思考方法を取らない限り今後も何かのきっかけに再び水面下の問題が一気に露出する事態の繰返しは避けられないであろう。

また、そうしたアプローチを取ることは 10月の最大の敗者たるビッグ 3 にとって有効というだけでなく、一時的な勝者に過ぎない(と筆者は考えている)日本車メーカーにとっても成功・成長の持続のために重要だと思われる。

【日米攻防史】

今日の問題に入る前に、自動車メーカーの世界的な攻防史・戦略史を振り返ってみたい。今後のアプローチを検討する上で重要な要素がそこに含まれていると思われるからである。

70年代後半以降、世界の自動車市場を日本車が席巻し始めた。70年代の二度の石油危機を経て燃費効率の高さと品質対価格性能の高さで米市場を初めとして世界市場で日本車の競争力が飛躍的に向上し、80年には日本の自動車生産が1千万台超に達して世界最大の自動車生産国になる。

当初は低価格が最大の武器だと思われていたものの、85年 9月のプラザ合意による急激な円高に伴う値上げによっても日本車の増勢や業績に衰えが見えないことから 80年代後半には品質と生産性こそが日本車の真の競争力であることを欧米メーカーも意識するに至った。90年代前半には世界中で日本車のものづくりを学ぼうとする動きが広まり、90年代後半には品質と生産性の両面で欧米メーカーによる対日キャッチアップがほぼ完了したと言われた。

81年に設けられた対米輸出自主規制枠も 90年代には未消化が続き、94年には廃止され、同年以降自動車生産台数でも米国が世界一に復帰した。

90年代の終りには、ダイムラー・クライスラー誕生を契機に、力を付けた欧米メーカーが一斉に世界中の自動車メーカーの買収・統合の主体に踊り出た。

一方、日本車メーカーはバブル期に肥大化した経営資産がバブル崩壊後の急激な需要低下と遅れてきた円高により巨大な負債と化していたため、欧米メーカーの格好の買収対象となるなど、日米は再び逆転したのである。

昨年あたりからの日本車の好調と米国車の退潮は 20年ぶりの日米再々逆転ということができる。

【柔軟性とスピードの米国、一貫性とバランスの日本】

90年代の日米再逆転(米国の対日優位)の背景には米企業特有の柔軟性とスピードがあった。いかに日本側に失点があったとしても、品質と生産性で日本をキャッチアップしただけでは再逆転までには至らなかったと思われる。

この時点で発揮された米国の柔軟性とスピードとは、金融事業で利益を稼ぎ出すというビジネスモデルへのシフトと、SUV や北米市場への経営資源の集中とを指す。

日本車の品質管理と生産性向上ノウハウを(ひととおり)学んだ米企業は、日本企業の収益性の低さに気付くことになる。生真面目に品質と燃費性能の高い商品を生産性高く作り出し、世界中で売れているのにリターンはそれに見合わない(ROE、ROA が極端に低い)という問題点があった。

そこでビッグ 3 が開発した戦略の第一が、自動車の生産・販売を事業プラットフォームと位置付けて、多額のインセンティブを付けてでも大量に商品を市場に投入し、販売時に必要となる自動車ローン・リースで収益を稼ぎ出すという金融主体のビジネスモデルへのシフトである。

また、第二に開発費の掛からないトラックのシャシーに 4 座席分のボディーを乗せて、減価償却の終了した製造ラインで組み立てて高い収益性を確保するSUV 主体の商品戦略である。インテグラル型といわれる自動車製造業の中でもモジュラー型に近く、低コストで商品の多様化が可能という特徴を持つことが幸いした。

さらに、これらの戦略は、同時に世界最大のトラック市場と生産能力と、貯蓄率が低くローンで自動車を購入することに最も抵抗の少ない国民性とを、自国市場に抱える米企業以外には取りにくい戦略でもあり、最大の差別化・参入障壁戦略ともなりえた。そこで地域的にも北米に経営資源を集中する戦略を取った。

自動車事業とは自動車を作ることと固定的に捉えるのではなく、金融事業のための母体と柔軟にビジネスモデルを見直し、この商品ラインや地域が売れる・儲かると見れば経営資源を一気にそこに集中するスピードが米企業の強みであったといえる。

この間も日本の自動車メーカーは一貫してものづくりを磨き上げることに徹し、また次世代の環境・安全規制や社会的ニーズを意識してハイブリッド・エンジンや ASV (先進安全自動車)技術開発を進め、地域的にも欧州・アジア・南米などにバランスよく設備投資を続けてきた。必然的に経営資源の分散を招き、成長のスピードや収益の水準では米企業に対し劣勢となったのである。

【米自動車産業の構造的弱点】

ところが、昨今、米自動車産業が苦境に陥った直接の原因は、皮肉にも柔軟性とスピードの欠如にある(これに対して日本車メーカーの好調は一貫性とバランスを維持したことにある)といえるのではなかろうか。

第一に、環境に合わせてものづくりを変化させていく柔軟性やスピードを十分に垣間見ることができない。

商品面では、90年代に早くも CR-V や RAV4 等乗用車ベースの SUV の成功を目の当たりにしながら、過度に SUV やフルサイズ・ピックアップに依存してクロスオーバー型の SUV 開発や、魅力あるセダン開発に遅れを取った。

技術面では、環境性能・低燃費性能への要求は 70年代以来米国が世界をリードしていたにも拘わらず、ハイブリッド・エンジンやクリーン・ディーゼルへの開発投資を怠ってきた。

顧客価値という面でも、安全性能世界一とか、燃費性能世界一とか、開発スピード世界一、リサイクル率世界一など、ビジョンに設定することの可能なコンセプトはいくらでもあったはずだが、実際にそれを真剣に志向することはなかった。

第二に、経営課題への取り組みにも柔軟性やスピードを感じ取ることができない。

ブランド・マネジメント面では、90年代半ばには輸出規制枠で台数を稼げない日本車メーカーが立ち上げた第二チャネル(レクサス、アキュラ、インフィニティ)が市場を確立しつつあったが、キャディラック、リンカーンはじめ多数のブランドを抱えるビッグ 3 のリポジショニングは行なわれなかった。近年ではトヨタが若年層需要取り込みのための第三ブランド(サイオン)を立ち上げているが、これに対しても有効な手立ては打たれなかった。

医療保険・年金などのレガシー・コストの問題もデリケートで難しい問題とはいえ、早くから認識されながら対応は後手後手に回った。

日本車の強みの一つがサプライヤ・マネジメントの巧みさにあることも 80年代には解明されていたのに、今日でもサプライヤの不満は鬱積している。

地域ポートフォリオの構築においても、成長するアジア市場への取り組みで、Ford の中国進出は日欧に遅れ、GM は中国こそ比較的順調にマネジしているが、日本では結局、富士重工とアライアンスの成果を出すことなく、トヨタに(部分的に)株式を譲渡することとなった。

せっかく 90年代後半には日本車をものづくり面でキャッチアップしたとしながら、その後日本車がものづくりを一部軌道修正しながら磨き上げてきた部分を取り入れる柔軟性やスピードは殆ど発揮されず、SUV ・北米市場への特化と金融主体のビジネスモデルに固執した。

また、業績を急回復させながら、そこで得た収益や資金を商品・技術・価値の開発や、多様な経営課題の解決に振り向ける柔軟性やスピードも欠いてきた結果が今日の苦境の遠因にあるといえるのではないだろうか。

【日本企業への示唆】

読者にはビッグ 3 の批判に終始した印象を与えてしまったかもしれないが、筆者の論旨は別のところにある。

本来、ビッグ 3 はもちろん、米企業には一般に自社の欠点を自動的に洗い出し、自律的に制御・修正する機能が備わっていることが多い。実際に 80年代にはその機能が発揮され、日本企業からの学習が進んだし、エンロン問題以降、コーポレート・ガバナンスの再構築も自律的に進めた。

また、一度問題点を発見し、修正を必要としたときの意思決定のスピード、経営資源の集中は日本企業のそれを遥かに上回る。

それにも拘わらず米企業の構造的問題の解決が遅れてきた最大の原因は、成功体験を引きずってしまったことにあると思われる。

90年代後半以降の商品戦略、地域戦略、ビジネスモデルの成功体験があまりに鮮烈かつ巨大だったために慢心して構造的問題から目が離れがちとなり、対応が遅れた結果、いまやその解決は困難となって成功モデルの延命・復活ばかりに固執する結果に陥ったと考えられるのである。

そして同じことは日本企業にも当てはまるはずである。
90年代半ばの日米再逆転を許したのは、バブル時代の日本車メーカーの成功体験の残像であり、慢心であった。

現在多くの日本車メーカーが空前の好業績に沸いている。その結果、米自動車産業の苦境を対岸の火事と見て、一貫性とバランスを重視してきた日本車のものづくりや経営スタイルを自画自賛する傾向が見られる。

だが、実際には、コスト構造、地域ポートフォリオの分散、輸出・国内比率(為替リスク)、次世代技術の開発、人事・組織戦略の再構築、商品依存・インセンティブ依存の売上構造、販売チャネルの整理・統合など、従来からの構造的課題が未解決の企業も多いのではないか。好業績の影で関心が薄れ、対応が先送りになっていないだろうか。

また、上述のとおり米企業のポテンシャルを侮ることは出来ないし、失敗体験は必ず次の成功を生み、成功体験は次の失敗を招くというのが日米攻防史であった。

構造的課題の解決を図るとすれば、好業績の今日を置いて他にない。それが今日の米企業の苦境や日米攻防史から学ぶべき教訓であろう。

<加藤 真一>