日本の自動車史 第1章 日本の自動車産業の夜明け(2)

このコラムでは、日本の自動車産業の歴史を、その当時の名車・歴史的に意義が大きい車に着目し、その車をめぐる経緯や歴史的背景、後世への意義を考え、日本の自動車産業を見直してみたいと思います。
第1章としては、20 世紀初頭から戦後間もない頃の日本に焦点を当て、黎明期の自動車産業と、現在の自動車メーカー誕生にまつわる話しを4回に分けて紹介します。

第2回 『DAT号』と日産自動車の誕生
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第2回は、日産自動車のルーツであるDAT(脱兎)号が誕生し、日産自動車が設立に至るまでの経緯とその時代背景について紹介します。

「DAT号」の産みの親は橋本増次郎氏という、所謂「街の発明家」でした。橋本氏は、1902年に渡米し、米国の自動車生産技術を学び、日露戦争応召のため帰国します。その後兵役を経て、鉄工所に勤めたものの、この会社が九州炭鉱汽船に買収されたことで同社長の田健次郎氏と役員の竹内明太郎氏と出会うことになり、自動車製造への夢が再び動き出すことになりました。

1911年、田、竹内両氏と逓信省技師であった友人の青山禄郎氏の支援を得て、橋本氏は快進社自動車工場を設立します。
快進社では、輸入自動車の修理、組立販売で生計を立てながら、自動車の独自設計を続け、試作車の製作を進めました。

こうして完成した試作第2号車は、1914年に東京大正博覧会で銅牌を獲得します。 橋本は資金協力者である、田、青山、竹内各氏のイニシャルを取って、これを「DAT(脱兎)号」と命名し、翌年発売を開始します。 この名前は、一番の特徴は高速性能(最高時速32km/h。当時では非常に高速でした。)の意味をこめて、「脱兎」を掛けられています。
快進社は、1926年に大阪の実用自動車製造株式会社と合併し、ダット自動車製造株式会社となります。実用自動車は、1919年に大阪の実業家であり久保田鉄工(現クボタ)創設者である久保田権四郎氏が設立した会社です。 久保田氏は、米人技師ウィリアム・ゴーハムが持つ技術に目をつけ、ゴーハム氏が設計した三輪車を製造する会社として実用自動車を設立しました。
実用自動車はその後四輪車も発売したが、欧米輸入車との競争に窮地に追い込まれていたため、快進社との合併することになりました。

ダット自動車では、DATの息子という意味を込めて「DATSON」1号を発売するが、「SON」が「損」に繋がるということから、「SUN」(太陽)に変更される。これが「DATSUN」の起源と言われています。
その後、1933年に新興財閥である日本産業(鮎川義介総帥)傘下の戸畑鋳物株式会社がダット自動車製造を吸収し、自動車製造株式会社となり、翌年日産自動車株式会社と社名変更します。
これが日産自動車のルーツです。

日本の自動車産業の黎明期は、第1回でも紹介しました1910年代から始まりますが、1923年の関東大震災を機に大きな転機を迎えます。
東京・横浜では、震災により、当時交通の主流であった路面電車は壊滅的打撃を受け、復興もままならない状態となりました。
そのため、東京市電局がバス営業を開始したのを始め、輸入自動車関税の優遇の後押しもあり、民間でも馬車営業者からバス・タクシー業者へ転換も相次いだそうです。
その自動車の波は全国的にも広がりを見せ、多くの鉄道事業者や地方都市、国鉄もバス事業に進出を始めました。

この流れを受け、日本の自動車製造も大きく成長すると期待されました。
しかし、日本市場の成長に着目した米Fordは1925年に横浜に、米GMは1927年に大阪に工場を開設し、ノックダウン組立による大量生産を開始し、圧倒的な競争力を持って市場を制圧しました。
1930年代前半には、米国メーカーの組立車が市場の90%を占めていたと言われています。国内自動車メーカーは、軍用トラックを始めとする、政府の保護下の需要で生き長らえていました。
日産に限らず、現在の日本の自動車産業を支える企業の誕生期では、国内で生産する海外メーカーとの競争を強いられた環境であったと言えるでしょう。

<本條 聡>

このコラムでは、日本の自動車産業の歴史を、その当時の名車・歴史的に意義が大きい車に着目し、その車をめぐる経緯や歴史的背景、後世への意義を考え、日本の自動車産業を見直してみたいと思います。
第1章としては、20 世紀初頭から戦後間もない頃の日本に焦点を当て、黎明期の自動車産業と、現在の自動車メーカー誕生にまつわる話しを4回に分けて紹介します。

第3回 『トヨダAA型』とトヨタ生産方式の始まり
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第3回は、トヨタ自動車の産みの親である豊田喜一郎氏がトヨタ自動車初の国産乗用車である『トヨダ AA 型』を誕生させるまでの経緯とその時代背景について紹介します。

豊田喜一郎氏の父であり、トヨタグループの創始者である豊田佐吉氏は、1891年に人力織機の発明をしたのを皮切りに、織機の開発・販売で起業しました。

1918年には豊田紡績株式会社、1926年には豊田自動織機製作所を設立し、日本の繊維業界の成長にも後押しされ、莫大な財産を築いていきました。
大学を卒業後豊田自動織機に入社した喜一郎氏は、自動織機で得た資産を注ぎ込み、「日本人の頭と腕で国産車を」という信念のもと、自動車事業への進出を決断し、1930年に自動車の調査・研究を始めます。1933年には新事業として社内に自動車部を設立し、自動車の開発を本格化させました。

1935年には、米 GM 社のシボレーエンジンを模した A 型エンジンを搭載する『A1 型乗用車』と『G1 型トラック』を試作完成させます。A1 型試作乗用車は、そのほとんどの主要部品は輸入品でした。
翌 1936年に、トヨタ自動車初の国産量産乗用車である『AA 型セダン』と『AB型フェ-トン』を開発し、同年 9月に都内で大々的に発表会を行いました。

この発表会を機に、トヨタ自動車は量産体制を整備し、急速に成長への道を進むことになります。

喜一郎氏は、1937年に自動車部を豊田自動織機から独立させ、トヨタ自動車工業株式会社を設立します。
トヨダからトヨタに名称変更したのもこの頃です。一説には、トヨダ(10 文字)よりトヨタは 8 文字で末広がりのため、とも言われております。

1937年には現本社工場である挙母工場も操業を開始しました。「ジャストインタイム方式」を本格導入したのもこの年と言われております。
当時の自動車産業は米国に席巻されており、国内市場の約 9 割が米国自動車メーカーの組立車でした。

その背景の中、喜一郎氏は明確な目標を立てます。米国の大量生産方式を学習しながら、日本の少量生産に適した変更を検討し、米国メーカーに対抗できるコスト削減を目標としました。金型やプレス等の設備投資を節約し、仕様変更に対応できる設備を導入しました。
海外先進国の CKD 生産が主流、国内独自商品は輸入部品を多用、という戦前の日本の自動車産業は現在の中国、タイ他アジア各国と大差ない状況であったにも関わらず、現在世界トップレベルの生産方式を構築できた、その礎は、この頃から始まっていた「ものづくり」としての自動車生産の追及にあったと言えるかもしれません。

<本條 聡>

このコラムでは、日本の自動車産業の歴史を、その当時の名車・歴史的に意義が大きい車に着目し、その車をめぐる経緯や歴史的背景、後世への意義を考え、日本の自動車産業を見直してみたいと思います。
第1章としては、20 世紀初頭から戦後間もない頃の日本に焦点を当て、黎明期の自動車産業と、現在の自動車メーカー誕生にまつわる話しを紹介します。今回が第1章の最終回です。

第4回 電気自動車とプリンス自動車のルーツ
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第4回は、プリンス自動車誕生の経緯と当時のヒット商品である電気自動車を、時代背景と絡めて紹介します。

今や、電気自動車と言っても誰も驚かないとは思いますが、戦後にも量産・販売していたと言うのをご存知の方は少ないのではないでしょうか。実は、戦後の燃料不足の中で誕生した電気自動車がありました。

戦時中「隼」や「疾風」といった戦闘機を生産していた立川飛行機は、戦後GHQ により軍需産業から撤退を余儀なくされ、下請で生産していた自動車製造技術を吸収し、自動車産業への転換を図りました。
当時慢性的燃料不足によりガソリンは GHQ に統制されていたため、電気自動車の開発に着手し、1947年には試作車を完成させます。
しかし、その後に立川飛行機が解体され、その自動車部門が独立して東京電気自動車となり、量産電気乗用車の完成に至ります。
府中にあった工場の地名にちなみ、「たま電気自動車」と名づけられ、発売しました。

初代「たま電気自動車」は、2ドア、4人乗りで、最高速度 35km/h、1 充電走行距離 65km でした。当時のガソリン不足から「たま電気自動車」はヒット商品となり、その後も改良車種を開発・発売しました。

1949年東京電気自動車はたま電気自動車に社名変更します。しかし、1950年に朝鮮戦争が始まると、今度は鉛の価格が急騰し、電気自動車の生産が困難となりました。
そして、ガソリン乗用車の製造を手掛けることになりましたが、たま電気自動車にはガソリンエンジンの技術がなかったため、富士精密工業がエンジン設計を担当することになりました。
富士精密工業は、戦時中「零戦」のエンジンを製造していた中島飛行機(富士重工のルーツ)が財閥解体で分割されたうちの 1 社です。 こうして 1951年にはガソリンエンジンを搭載したトラックを開発し、社名もたま自動車となりました。
翌年にはガソリンエンジン乗用車を開発したが、この年 皇太子殿下の立太子礼を記念し、「プリンス」 AISH 型と名づけられ、社名もプリンス自動車工業となります。

その後プリンス自動車工業は 1954年に富士精密工業に吸収合併され、新富士精密工業となりますが、1961年、プリンス・スカイライン、プリンス・グロリアのイメージが定着したこともあり、再び社名がプリンス自動車工業 となりました。
さらにその後、たま自動車時代からの支援者であり、当時会長であった石橋正二郎氏(元ブリジストン会長)は、本業に専念するためプリンス自動車を手放すことを考え、1966年日産自動車に吸収されました。

誕生以来、20 世紀の自動車産業の主流であったガソリンエンジン乗用車ですが、50年以上前の日本にも、その流れが変わったかもしれない機会があったということは、感慨深いものがあります。モノづくりを追求し、新技術を模索、具現化する日本の製造業の精神は不変だと思います。
21 世紀の自動車産業の新たな流れも、日本が先導して欲しいと期待します。

<本條 聡>