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日本の自動車史 第1章 日本の自動車産業の夜明け(1)
このコラムでは、日本の自動車産業の歴史を、その当時の名車・歴史的に意義が大きい車に着目し、その車をめぐる経緯や歴史的背景、後世への意義を考え、日本の自動車産業を見直してみたいと思います。
第1章としては、20世紀初頭から戦後間もない頃の日本に焦点を当て、黎明期の自動車産業と、現在の自動車メーカー誕生にまつわる話しを4回に分けて紹介します。
第1回 日本で最初に量産された自動車『タクリー号』
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記念すべき第1回は、日本で最初に量産された自動車と言われる「タクリー号」とその誕生した時代についての話しです。
日本で最初の自動車は、1898年にフランス人ジャン・マリー・テブレ氏が持ち込んだ「パナール・ルヴァッソール」と言われており、これが日本の自動車史のスタートとも言えると思います。
当時の日本では、世間の「乗り物」に関する認知は人力車、馬車、自転車であり、自動車に関心を持つ人はまだまだ少なかったようです。
その後、1904年(日露戦争の年)に最初の国産蒸気自動車(山羽式蒸気自動車)が誕生し、その3年後の 1907年に国産ガソリンエンジン自動車第1号となる「国産吉田式自動車」(通称タクリー号)が誕生します。
「タクリー号」の産みの親は、1902年に吉田・三浦両氏が設立する国内最初の自動車販売会社であるオートモービル商会(後に改組を重ね、国内最初の自動車製造会社である東京自動車製作所となる)の内山氏と言われています。
ウラジオストックで機械・自動車の技術を学んだ内山氏は、同社に入社後、輸入したエンジンを利用して自動車の組立に取り組みました。
その内山氏が「タクリー号」を製作する発端となったのは有栖川宮殿下でした。殿下は 1905年に外遊先から持ち帰った仏「ダラック号」の修理を同社に依頼した際、独自の自動車製作を持ちかけました。
内山氏は、ダラック号のボディと、米フォード「A型」のエンジンをベースに、タイヤ、バッテリー、プラグ等の輸入品を使い、熟練鋳物師の指導も受け、試行錯誤を重ね、1年数ヶ月後の 1907年に日本最初のガソリン自動車を完成させます。
「ガタクリ、ガタクリ」という大きな音がしたことから、この自動車が「タクリー号」と呼ばれるようになったそうです。この日本最初のガソリン自動車完成のニュースは、大きな反響を呼び、東京自動車製作所は合計 14台を受注したそうです。
当時の自動車産業を取り巻く環境について触れると、中古でも数千円(初任給の約百倍)した自動車は、華族や実業家に限られたもので、実用性よりも道楽的な見地で見られる、珍しい存在だったようです。
全国の保有台数は、1907年に 10台前後、1913年に 500台前後だったと言われています。1912年には東京でタクシー会社も誕生しましたが、これもまだまだ富裕層に限られた贅沢でした。
当時の国内自動車生産状況について触れると、タクリー号を製作した東京自動車の他にも、同社に刺激を受けた山田・国末両氏は自働車製作所を設立し、国産車の製造・販売を始めました。
明治末期は、まさにこうした国産自動車メーカーが誕生した時代ですが、その規模はいずれも小さく、少量生産の試作車では、フォード、フィアット、ダイムラーといった洗練されたデザインの輸入車には及ばず、苦戦を強いられていました。
限定された厳しい市場の中で、夢と熱意を持って自動車製造を志したこうした人々が、今日の日本自動車産業の創生期を支えていたと言えるでしょう。
<本條 聡>